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Tyees HiStory幼少時代

--Tyees HiStory幼少時代--

私がバッハを弾けない理由  (幼少の頃の想い出)

私はバッハの練習を今までしてこなかったが、自分に何故か問うてみた。大学時代なり会社勤めとなっても、他の曲と同じように、練習すれば多少は今、弾けるようになっていたはず。でも、私は、バッハを練習していなかった。してこなかった。きっとこれには理由があるはずだ。

ということで、私は、自分の過去のメモリーをたぐりよせてそのことを考えてみたい。

忘却の彼方から、自分の記憶をたぐってみた。

ピアノ習い初めのころ・・・・・

私は、幼少の頃、ある日、ピアノを弾きたいと親にピアノをねだったらしい。
親は、その当時苦しかったのか、また、子供が練習するわけないと判断したのかは、
わからないが、結果として、ピアノではなく、電気式のオルガンを私に買い与えた。

記憶はおぼろげだが・・・・
音色がどのようであったかはさっぱり覚えていないが、
形のイメージはなんとなく覚えている。

確か大きな足が一本の変わった形をした電気オルガンで、・・・・
あれは何社のなんというオルガンだったのだろう。? 

そして、ピアノの先生について習いはじめた。

そして、小学校にあがる頃、先生に言われたのか、両親は、私に約束させた。
「先生からも言われて、本物のピアノを買うことにしようと思うのだけれど、Tyeeちゃん、ちゃんと練習できる? 毎日30分の練習を約束できるのならばピアノ買ってあげる。」と。

私は、勿論ピアノが欲しかったので、Yes,Please!!Please!!と、即、練習を約束したのだった。後々、どうなるかもわからずに。

そして、本物のピアノ、アップライトピアノだったが、ヤマハのU3が届いた。黒塗りの大きなピアノだった。


さて、母は、毎日、私に30分ずつ練習させる。親は、クラシックを含めて、色々な音楽が好きだったようだが、ピアノを習ったこともなければ、弾いたこともない。

しかし、母は、私の練習する曲は、きちんと、先生から話を聞いていて、1週間みっちり私に練習させてから、先生のところへいかせるのであった。結構スパルタだったかもしれない。

大枚はたいてピアノを買ったくらいだからものにさせたかったのかもしれない。また、子供には、それなりの趣味をもたせようと考えていたのだろう。
(今考えると有難いことだったと思う。<感謝>)


そして、その頃、即ち、小学校低学年の頃には、特に男の担任の先生がピアノをひけなかったりすると、直に、僕がかわりに弾いてあげるよ、などといって、先生に替わって、オルガンの伴奏などをしていた。
先生たちからは、ずいぶん重宝がられていたのではないかと思う。
私もその点は、少々得意になっていた。このことが、その頃は、練習を続ける糧のようなものだったのだろう。


・・・暫く時がたった・・・

しかし、しばらくすると、ピアノの練習は、だんだん、弾きたい曲を弾けるわけではなく、きつい練習になり、重荷で苦しいことに変わり出していったのだった。


そして、私は、ピアノから逃避するようになっていった。

それには、練習曲が難しく手に負えなくなってきたこともあるが、竹の物差レッスンも関係していたのだった。・・・続く


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私がバッハを弾けない理由  (幼少の頃の想い出 その2)
昨日に続いて、バッハを弾けない理由を探る。
ひとつの原因は、以下紹介する今回の想い出において明らかなように、バッハを練習しだす前に先生についての
ピアノ練習をやめてしまったことであり、自明なのだが、・・・
もうひとつの原因、即ち、
「大学時代なり会社勤めとなっても、他の曲と同じように練習していれば、多少は今弾けるようになっていたはず。
でも、私は、バッハを練習していなかった。」ことについての原因については、
さらに、よくよく考えてみる余地が必要がありそうだ。

それでは、まず、自明の原因について、以下、自分の過去のメモリーから、とりだして、説明してみたい。

・・・ピアノを練習しはじめて暫く時がたった頃、私は、ピアノから逃避するようになっていった。・・・
それには、竹の物差が関係していたのだった。

*** 竹の物差レッスンとピアノ練習からの逃避 ***

さて、4歳からはじめた電気オルガンでの練習、そして小学校1~2年では、念願のアップライト
ピアノも買ってもらい、順調にピアノ練習に頑張っていた。
しかし、小学校中盤、即ち、小学校3~4年生ともなると、他の興味の対象が増えていった。

時々、学校から帰った私が母を避け、ピアノ練習をさぼって遊びにいってしまうと、母から大変怒られた。
ということで、私は、いやいやであったが、かろうじて、練習を続けた。毎日30分間・・・・。

そのうち、母親は、ピアノの練習の際に、竹製の30センチメートルの物差をもつようになった。

私が何回も同じところを間違えると、横から私の手をその物差でぶつのであった。
手首と肘の中間あたりをピシッと打つ。まるで、竹の物差が一瞬ムチのようにしなるような感じで・・・・。痛っ!!!

私は、母が怖くて、竹の物差が怖くて、仕方なく、遊びにいく前に必ず30分間ピアノの練習をせね
ばならなくなったのである。30センチの物差と30分の練習・・・・。

そして、その竹の物差は、次第に割れて先の方が裂けていく。
物差が割れて使い物にならなくなると、母はまた新しい物差を買ってくるのだった。

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今から振り返って考えてみると、
その頃は、表面上、伴奏等を人前でするとほめられていい気分になるものの、内心では、本
当は練習する曲が好きではなかったのだろうと思う。
ピアノの練習は、好きな弾きたい曲を弾ける楽しいこと、興味の対象から、
いやいやながら、練習に耐えるという「重荷で苦しいこと」に変わってしまっていったのだった。
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私は、痛みに耐えつつ、しかもだんだん難しくなる曲を練習するのがきらいになっていった。
「近所の○○ちゃんはもう、ソナチネの何番やっているらしいよ・・・」
「へー、そうなんだ」

そのうち、
「近所の○○ちゃんはもう、ソナタの何番やっているらしいよ・・・」
「フーン、・・・・・(無言)」

私の頭の中は、その当時はやっていた、「メンコ」集めとその戦いをどのように優位にするか、
また、強いメンコをそろえるには、いくらくらいのお小遣いが必要かということ、で一杯だった。
また、将棋に強くなる方法とか、はたまた、ドッジボールで勝つ方法(女投げか男投げか)と
か、より速く走る方法とかに興味を覚えていた。

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そして、小学生も高学年になりかけの頃、とうとう、選択の時はやってきた。
母から、
「今度、ピアノの先生が引っ越すことになるのだけれど、どうする。塾にもいかなければ
いけないし・・・・・。」と、難問をつきつけられた。二者択一、選択すべしとのことだった。

高学年ともなると、私は、ピアノ以外の沢山の好きなものもあったが、何よりも、勉強を頑張ら
ねばならなくなり、学習塾にもいくことにしようかなと考えていた頃だ。
私は私なりに、小さな頭で、中学をどうするのか考え出していたのだった。

僕は受験するとしても、私立だと、お金もかかるし、国立の中学ならどうにか、親もお金を出してくれるかな。でも、国立の中学は難しいらしい・・・。地元の中学は遠いし・・。勉強せねばならん。
近所の○○ちゃんには、逆立ちしたって、ピアノは適わないし・・・・・。

私は、まじめに考えた末、結論を出した。

「ピアノの先生の引っ越しに伴い、ピアノはやめる。」と自ら宣言することになったわけだ。

そして、結局、間もなくの先生のお引っ越しと同時に、ピアノの習い事はやめてしまった。
そして、私は、某有名進学教室に毎週通う身となり、まじめに勉強をしだした。

振り返ってみれば、やめた理由は、
勉強も忙しくなってきたせいもあるが。何かチェルニーとか、ソナチネとかソナチネの中の
ソナタが難しくってということもあり、また、近所の○○ちゃんがソナタが弾けて上手といわれ、
比較されるのが少々いやになっていたのだろう。
また、回りに男の子で、ピアノを続けているなんて子もいなくなりつつあり、スポーツ系を
やらないと馬鹿にされるような雰囲気もあったと記憶している。

それっきり、ピアノの練習は気が向いたときに、自己流で、少々する程度となった。

--
以来、ピアノは皆の共有物になった。
父が、時々、右手・左手ユニゾンで、歌の旋律をひきながら、流行歌の練習をしていたのを
覚えている。
母は、私の練習で覚えたのか、好きなブルグミュラーの曲とかを時々練習していた。
6歳違いの弟も、ピアノを練習しはじめたが、習っていたのかどうか記憶にない。
ソルフェージュのようなところへ通っていたように記憶しているのだが・・・・。
弟は、私の練習を聴いていたこともあり、結構、直に色々な曲を弾けるようになっていたと
思う。
(彼は、現在社会人アマチュアバイオリニストです・・・・。いくつかアマチュアオケを掛持ち
しているようです。)

両親は言った。  「続けていけば良いのに」「折角ピアノ買ってあげたのに・・・・」とか。
母親は、とうとう、私のピアノはあきらめ、今度は、弟に、ちゃんと練習しなさいと言いはじ
めていた。

------
ということで、私のピアノ練習、しかも先生についての練習というのは、ここで途切れている
のだ。
結果、私は、バッハもモーツァルトもハイドンもやらなかった。
私のちゃんとしたピアノ練習は、ソナチネクラスのかわいいいくつかのソナタまでであった。
そこで、ぷっつんと、練習の糸は途切れてしまったのだ。
だいたい、バッハなど、どんな曲があるかもよく知らなかった。
オルガン曲の、トッカータとフーガニ短調とか、小フーガト短調は、聴くのは好きだったけ
れども。
インヴェンションとシンフォニアは知らなかったのだ。その時は、知る必要もなかった!!!!

今となっては、かえすがえすも練習をいやでも続け、バッハをやっておけばよかったと悔や
むことしきりであるが、時間は、取り戻せないのだ。仕方がない。
また、その一方で、何故か 竹の物差が懐かしく、感謝さえしている自分でもある。

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以上が、私がバッハ(それどころか、モーツァルトからベートーベン等の古典ものすべて)
を弾けない理由のひとつに違いない。
それ以来、私はピアノの先生についたことがないのだから。


***********番外編
私は、小学校高学年の時、音楽の時間は、結構、伴奏役とかやっていたので、私の
その後の練習は、小学校でやる曲の練習のみときまっていた。

小学高学年の頃の音楽仲間はいなかった。遠くから見ていた子はいたけれど。
ところで、
小学校には、ひとりかわいい?きれいな?女の子で、ピアノを専門に習っているという噂
の子がいた。
その子は、ちょっと他の子とは違っていたな。
小学校の友達とは遊ばずいつも母親と歩いていた。友達といっしょというよりは、母
親といっしょ。
誰もその子のことをよく知らないみたいだ。誰もその子のことはよく知らない。
不思議で秘密めいてよく知らないんだけれど、かなりかわいい子だったので、印象に
残っている。
ただ、女子の噂話によると、あの子、美人だけれど冷たいんだよね・・・なんて会話が
聞こえてきたりしていた。

彼女は地元の中学には進まなかったので、それっきりである。なんでも、音楽専門の
学校に行ったらしい。それっきり会ったこともない。話をしたこともない。
今は何をしているのだろうか・・・・。ピアニストかピアノの先生になったのだろうか?

男の子というものは、格好つけたがるもので、このような、かわいい子がいると頑張って
ピアノを練習したりするんだよね。昔は、よかったなあ・・・・。

*******************
私は、国立の中学をひとつだけ受験したけれど、見事失敗。
地元の中学に歩いて通うことになる。それは、徒歩1時間もかかる中学だった。

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